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いつか思い出になる息子の姿を

つぶやき

私が出産した病院は、本当に温かくていい病院だった。

どんなに良い環境でも、そこが自分にフィットするかどうかは分からないという意味で、私はとても幸運な妊婦だったに違いない。里帰り出産のため、産院には33週で初めて足を運んだけれど、最初からこの病院が良かったと思う程に居心地が良かった。新型コロナウイルスのせいで、立ち合いも面会も禁止だった反面、看護師さんたち(全員、助産師さんの資格を取得しているらしい)が本当に親身に寄り添ってくれた。あの病院で、母になった最初の1週間を過ごすことができたことは、この上ない素晴らしいスタートだった。

あの1週間を振り返って、途方もなく残念に感じることが一つ。

それは、自分の目で見た小さな小さな息子の姿の記憶が、手元にあるスマートフォンで撮影した写真とすり替わっていること。

出産への立ち合いも面会も叶わなかった夫や家族に、生まれたばかりの息子の尊さを何とか共有したくて、たくさん写真や動画を撮った。その結果、産院の個室のコットに眠る息子の姿を思い出そうとすると、目で見た彼自身ではなく、何度も見返した写真や動画のデータの彼が浮かんでしまう。私の目の高さや角度とは違う視点で残った、息子の姿。

もちろん、それらを頼りに記憶を紐解くことはできる。フォルダを開けば、今はもうすっかりぷくぷくしてしまった息子の、壊れもののような無垢な姿を見返せる。ただ、これは私の理想としていた思い出とは違う「メモリー」になってしまった。

写真1枚すら残っていない産院の看護師さんや先生の顔は、データのようにパキッとは思い出せない。それでも、思い返すだけであたたかい。息子の記録を写真や動画に残さないという選択肢はないけれど、手軽に収めてしまえるからこそ、大事な時には何のフィルターにも通さずに、自分の目で見て、「思い出」として抱いていたい。いつか、今がもっともっと遠い昔になった頃に脳裏に浮かぶ息子の姿が、切り取られたシーンではなく、朧げな、誰とも共有できない私だけの思い出になるように。